愛犬との別れ

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[エッセイ 415]
愛犬との別れ

 ある日、飼い犬を預かってくれと、長男が3歳8カ月になる雌のダックスフンドを連れてきた。彼等夫婦に最初の子供が授かった直後のことである。犬を飼ったことはないし、その予備知識もまったくなかったが、事情が事情なのでとにかく預かることにした。長男は、そのまま犬を置いて帰っていった。

 その最初の子供が少し大きくなったので、ぼつぼつ返す頃合いかなと思っていたら、彼等家族に次の子供が授けられた。その子もだいぶ成長してきたので今度こそはとそのつもりになっていたら、なんと長男はアメリカに転勤することになった。彼等家族は、犬をわが家に残したまま成田を発っていった。

 こうなったら、わが家の飼い犬のつもりで、本腰を入れて飼うしかないと心に決めた。それから半年が過ぎた梅雨最中のある朝、あのとんでもない事件が起きた。犬の下半身が完全にマヒし、あたりには糞尿が散乱していたのだ。急いで病院に連れていったら、椎間板ヘルニアと診断された。

 おむつを穿き、這い這いしかできなくなった犬であったが、それから半年が過ぎたあたりから少しずつ立てるようになってきた。そして翌年の早春、とうとう歩けるようになるまでに回復してきた。もちろん、おむつはつけたまま、引きずるようにしてのおぼつかない足取りではあるが・・。

 長男たちはアメリカにすっかり定着し、こちらでは人間二人と犬一匹の平穏な日々が続いていた。あれ以来、犬には腰の骨を強くする薬を飲ませ、餌にも一段と気を使うようになっていた。年一回の、健康診断や各種予防注射も必ず受けさせた。朝夕の散歩も、夫婦交代で一度も欠かしたことはない。

 そんなある日、長男の東京への転勤が決まった。実に6年4カ月ぶりのことである。しかし、犬を返すには、彼らが自宅を新築して社宅を出るまでの、さらに数年の歳月が必要だった。結局、犬が里帰りできたのは、わが家に預かって以来の10年と3カ月後のことになる。彼女は14歳になっていた。

 犬の新しい住まいは杉並区の北辺、善福寺公園まで散歩するにはちょうどいい距離にあった。すっかり大きくなった孫たちと、その辺りまで往復するのが新しい日課となった。しかし、14歳とはいえ、人間に置き換えると72歳、犬にとっては高齢の部類に入る。その散歩はむしろ苦痛に近かったようだ。

 数日前、長男から電話があり、朝起きたら犬が冷たくなっていたという。享年17歳9カ月、人間でいうと87歳にあたる。おむつをつけ、ヘルニアの後遺症と闘い続けた生涯でもあった。

 一かけらほど分骨し、犬が喜んで駆けまわっていたわが家の庭の片隅に埋めてやるつもりである。
(2015年2月28日)