大和魂

イメージ 1

[エッセイ 403]
大和魂

 豪栄道大関に昇進した。その伝達式の口上で、「大和魂を貫く」と述べたので大変びっくりさせられた。それと同時に、その言葉に違和感さえ覚えた。彼は、「日本人の我慢強さ、潔さがこの言葉には籠っているので選んだ。自分の気持ちがシンプルに伝わったと思う」と純粋な気持ちを強調していた。

 プロボクシング・スーパーライト級藤猛が、1967年に世界王座を奪取したときのコメントにもまたびっくりさせられた。ハワイ出身の彼は、まだ日本語も十分ではなかった。その彼の口から、いきなり「大和魂」が飛びだしてきた。テレビにかじりついていた日本人は一様にびっくりしたものだ。

 私の子供のころの記憶では、「大和魂」は軍国主義を遂行するための合言葉のように使われていた。そんな経緯から、戦後は忌避されまったくの死語になっていたように思う。それが突然、昼間のお化けのように出現したので、興味がわき少し調べてみようかという気になった。

 わが家の広辞林には、大和魂とは、“大和民族固有の精神(才幹)”とあった。いま一つピンとこないので、ウェブであれこれ探して見た。その結果、ブリタニカ国際大百科事典の解説が一番わかりやすかった。

 “日本民族固有の精神として強調された観念。和魂、大和心、日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので、古くは中国に対し、近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には和魂漢才という語にみるように、日本人の実生活から遊離した漢才、すなわち漢学上の知識や才能に対して、日本人独自の思考ないし行動の仕方を指すのに用いられた。”

 大和魂とは、能力や知恵あるいは精神が、外国に比して日本的であると考える概念のようなものだ。平安中期あたりから「漢才」に対する「和魂」として使われだし、時を経て明治になると、西洋文明に目が向いて「洋才」に対する「和魂」として使われることが多くなった。

 さらには、それに政治的な意味合いが加えられ、帝国主義軍国主義の遂行の道具として利用されるようになった。帝国主義にあっては、国家への犠牲的な精神、あるいは日本民族の優位性や排外的な姿勢を含んだ言葉して重用された。そして、太平洋戦争のころに至っては、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味合いで使われ、多くの犠牲を強いるに至った。

 異文化との交流が進むにつれ、日本人とは何かを問い直さなければならないときがきた。そこで、日本人のアイデンティティを端的に表わす言葉として「大和魂」が生まれてきたようだ。元は極めて純粋だったはずだが、歴史の波に揉まれ汚れ果ててしまった。これに代わるなにかいい言葉はないだろうか。
(2014年8月7日)