歌舞伎鑑賞教室

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[エッセイ 312]
歌舞伎鑑賞教室

 七夕の前日、国立劇場で歌舞伎の「義経千本桜・渡海屋の場/大物浦の場」を鑑賞した。事前にいただいた入場券には、歌舞伎鑑賞教室というサブタイトルがつけられ、“歌舞伎―その美と歴史―”という小冊子が添えられていた。

 歌舞伎は、テレビ中継では何度も見たことがあるが、劇場での本格的な鑑賞は一度も経験がない。「いずれそのうち歌舞伎座で・・」と思っているうちに、その歌舞伎座も建て替え工事に入ってしまった。もう見る機会はないのだろうかと思っていた矢先、学校関係の団体鑑賞にお誘いを受けた。

 歌舞伎のことは、ある程度は知っているつもりだった。ところが実際にはなにもわかっていなかった。事前にいただいた小冊子は大いに勉強になった。さらに、前半30分の「歌舞伎のみかた」と題する解説は、それに磨きをかけてくれた。解説は、本番で源義経を演じる尾上松也さん、若いがさすがは役者さんだけのことはある。目からウロコを次々と剥がしてくれた。

 鑑賞する前は不思議なことだらけだった。演題は「義経千本桜」とあるので、物語の舞台は吉野山と思っていた。ところが、宣伝ポスターには義経も桜も描かれていない。逆に、死んだはずの平知盛が、すさまじい形相で大きな錨を抱いて立っている。その脇には、なぜか安徳帝の乳母・典侍の局が座っている。

 物語が進むにつれ、新たな疑問も湧いてきた。義経や弁慶はあまり活躍せず、脇役であるはずの、それも死んだはずの平家方の人物が主役になっている。ついには、平知盛が入水自殺をしようとしている。武士なのに、腹を切らずになぜ入水するのだろう。錨などわざわざ使わなくても、腹を切ってそのまま海に飛び込めばいいではないか。

 答えはすぐに見つかった。自分を深い海に沈め、二度と浮かび上がってこさせないようにするためだ。自分の醜い死体を人目に曝さないため、敵に自分の首を取られないようにするためだった。

 架空のたわいない話だと思っていたが、話が進むうちにだんだん引き込まれていった。そして終幕、尾上松緑さんの平知盛が、大きな錨を抱え上げ入水する場面では、その鬼気迫る迫力に私もとうとう涙してしまった。

 劇場を出て、堀端を半蔵門から日比谷方面へと向かった。午後1時過ぎの一番暑い時間帯だった。この日の東京の最高気温は33度と報じられていた。ところがちっとも暑さを感じない。皇居の緑が、あたりの気温を押し下げているのだろうか。堀を渡って吹き寄せる風は涼しささえ感じさせた。

 そういえば、最近の国政の停滞を反映してだろうか、堀端から望む国会議事堂がいやに小さく見えた。
(2011年7月8日)

写真 上:国立劇場(逆光で、おまけに樹木に遮られてよく見えないが・・)
    下:議事堂近くの堀端から桜田門、丸の内方面を望む