友のこと

イメージ 1

イメージ 2

[エッセイ 310]
友のこと

 高校からの、最も親しい友人がすい臓がんで逝った。4月も半ばにかかるころ、同期生で一泊二日のゴルフを一緒に楽しんだばかりである。そのとき、彼は初めてそのことをみんなに告げた。みんなは、それほど深刻とは受け取っていなかった。またそう考えたくもなかった。しかし、一度取りついた癌は、容易には見逃してくれなかった。事態はあっという間に進行していった。

 彼は、嵩山会という名の、ゴルフコンペの幹事を引き受けていた。メンバーは、高校の同窓生とその知人たちで、毎月第二日曜日に都内の河川敷コースで開かれている。彼は、そのコンペを仕切るばかりか、関連する雑事一切を自身の手でこなしていた。数カ月前、そのコンペはついに100回目を迎えた。

 彼は、開催日5日前になると、組合せ表をファックスで送ってくれた。一目見ただけでそれと分かるが、その表の左上には必ず送信先の名前が○○○○様とフルネームで記されていた。それもキチンとした誠意あふれる字で。

 普段、そのゴルフ場が受け入れてくれる人数の枠は5組・20名なので、毎月20人宛てに同じことをやっていたはずである。どのようにやっていたかは定かでないが、いずれにしても手間がかかることだけは確かである。彼はそれを100回分続けてきたわけである。
 
 彼は、人のため、友人のためなら労を惜しまなかった。時間の許す限り、全国どこへでも出かけていった。ただ、飛行機が極端に嫌いだったので、遠方でも時間をかけて列車で出向いていった。お酒の付き合いも極めてよかった。時間帯も、場所も選ばなかった。生来日本酒が好きだったということもあるが、人のためなら、という潜在意識が彼を無意識に動かしていたのかもしれない。

 2年前に帰省した折、双方の夫婦4人で会食をした。私がトイレに立ったとき、彼は家内にこんなことをいったという。「人間最期は友達の数で決まる」。普段、彼はそんなことを口にしたことはないが、平素の行動が、それが空念仏でなかったことを証明している。私もまったく同感であるが、彼の足元にも及ばない。友の数は一ケタ、いや場合によっては二ケタも違うかもしれない。

 人はいろいろな面を持っている。例えていえばミラーボールのようなものだ。球体ではあるが、その表面は何百何千という平らな鏡面で構成されている。彼のもつ「友」という鏡面は、他の面に比べ極端に大きかった。彼は、人懐っこさと誠実さでその部分を大切に育んできた。

 彼は、いずれ故郷に帰ってふる里発展のための研究所を開きたいといっていた。彼の、人を想う心、ふる里の発展を願う気持ちは、必ず多くの人に受け継がれ大きな輪となって広がっていくはずである。
(2011年6月29日)