年末年始

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[エッセイ 5](既発表 7年前の作品)
年末年始

 少年のころ、年末になるとどの家でも大掃除をした。お天気のいい日を見はからって、家じゅうの畳を上げ軒下に立てかけて天日干しにする。その間に、竹薮から切り出してきた笹の束で天井のススを払う。畳が上げられたあとの床には、そのつなぎ目に沿って綿ごみが筋状に連なってたまっている。天井や壁から落とされたススとともにそれらがきれいに拭われたあと、さらさらに乾いた畳が敷きなおされる。

 家々では、門に門松を飾り玄関にしめ縄を張った。どの家庭でも、餅がつかれ神棚に鏡餅が供えられた。それぞれの家庭では、手作りのおせち料理が用意された。一段落したところで掛け買いのつけを払いに出かけた。もちろん集金に来ることも多いが、自ら清算に出かけることもまれではなかった。この時代、まだ買い物の代金は盆と暮れに清算するのが当たり前であった。最後に、主婦は美容院へ主人は床屋へ行ってお正月に備えた。

 新年になると、みんなおめかしをして初詣に出かけた。本来なら、親戚や知人はもちろん近所の人にもきちんと挨拶をするのが慣わしであるが、寝正月を決め込む人も多く、それらは決して少数派とはいえなかった。お正月はみんなが休みをとり、ゆっくりと休養した。商店なども三が日はどこも閉まっていた。
 
 年末は、古いものをすべて清算し、自身を振り返りながら新しい年に向けて準備を整える年一度の重要な節目であった。新年は、十分に休息を取って英気を養い、新たな飛躍に向けて決意を固める貴重な時間であった。
 
 今日では、年末年始にはほとんどメリハリがなくなってきた。家庭には大掃除の概念は失せてしまったようである。門松やしめ縄は数軒に一軒しか見られない。お正月の晴れ着を着ている人にはめったにお目にかかれない。スーパーは元旦から開いている。それでも、初詣に出かけてみると大変な賑わいを見せている。この中に、神仏を信じている人はいくらもいないはずなのに、やはり日本人はどこかで区切りをつけたいと思っているようである。
 
 階段には踊り場があり、竹には節がある。地球には四季があり、物事には必ずサイクルがある。人生すべからく一本調子というわけにはいかない。何処かで立ち止まり、今きた道を振り返らなければならない。次に大きく飛び上がろうとすれば、ひざは極限まで曲げられなければならない。

 年末くらい、納得のいくまで掃除をやってみてはどうだろう。一年の最後の日くらい、自分自身を徹底して棚卸ししてみてはどうだろう。お正月には、一転して、真正面を見据えてみることにしてはどうだろう。
初日の出は、ことのほか黄金色に輝いて見えるはずである。
(2003年1月11日)