高野山

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[エッセイ 249](新作)
高野山

 神道と密接な関係にあるはずの天皇家のお墓が、高野山の「奥の院」にあるのはなぜだろう。大きなお墓に、鳥居が建てられているのもここでは珍しくない。そういえば、今上天皇の孫に当たる秋篠宮悠仁様の個紋に、高野山特産の高野槇が採用されたニュースはまだ記憶に新しい。
 
 「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)について勉強してみたら?」。高野山から帰った後、不思議に思っていることを神職の友人にぶつけてみたらこんなアドヴァイスが返ってきた。本地垂迹とは、仏あるいは菩薩が、民衆を救うために仮に神の姿になって現れることをいう。本地垂迹説では、神と仏は同体と考え、明治に入るまでは神仏を同じところに祭るのが一般的であった。
 
 世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である高野山は、標高800メートルあまりの盆地にある。まわりを1000メートルクラスの8つの山に囲まれている。あたかもハスの花に囲まれているようだという。高野山というのはこの聖域全体の名前で、そう呼ばれる山はない。

 西暦819年、弘法大師はここを修行の場として開創した。一時衰退の危機に瀕したこともあったが、いまでは高野山真言宗の総本山・金剛峯寺を中心に117もの寺が集まる信仰の町としてにぎわっている。入口の大門をくぐり、壇上伽藍や金剛峯寺の前を抜けてさらに進むと奥の院にたどりつく。

 入口の一の橋から2キロくらい続く参道の両側は、20万基を超えるといわれるお墓の団地である。樹齢数百年という杉の大木に守られた墓所には、天皇家や歴史上有名な人物の墓碑の多くがここに並んでいる。戦争の犠牲者や、有名企業の功労者をまつる慰霊碑も数多く目にすることができる。

 御廟橋から先は写真撮影も禁止されたまったくの聖域である。燈籠堂のさらにその奥に、西暦835年に入定した弘法大師の「御廟」がある。大師は、民衆のためにいまもそこで祈り続けていると信じられている。その「入定信仰」から、弘法大師にはいまでも1日2回の食事が届けられているという。

 ここは、仏教のそれも一宗派の拠点にすぎないはずなのに、奥の院には日本の全宗教の頂点に立つ“総本山”のような雰囲気がある。立派なお墓の群れを見ていると、私もいずれはここに入れてもらわないと、一人前の日本人として認めてもらったことにならないのではないかという気持ちになってくる。

 弘法大師の限りない大きな徳と、脈々と受け継がれてきた本地垂迹説がそれを当然のことと受け止めさせているのかもしれない。不肖私の名前は、ありがたくも「弘」の一字をいただいている。なんとかそれにあやかり、大師に近づきたいと考えているが、とても奥の院には葬ってはもらえそうにない。
(2009年7月5日)

写真:御廟橋から奥の院をのぞむ(これから先は撮影禁止)