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[エッセイ 97](既発表 4年前の作品)


 隣家の2階に取り付けられた戸袋の中では、いま雀が子育てに励んでいる。雨戸の開け閉めの時、つぶされてしまうのではないかと心配していたが、普段はどうやらそのままの状態なっているようだ。2羽がつがいで育てているのか、母鳥だけの母子家庭なのか判然としないが、気ぜわしく餌を運んでくるその姿には感動さえ覚える。

 この風景、私の子供のころとちっとも変わっていない。当時の屋根は、赤土で下地を整え、その上に瓦を載せるのが普通であった。屋根の端は、永年の風雨で赤土が流れ出し、瓦の合わせ目部分に空洞ができていた。この季節になると、そのすき間に雀たちが巣をつくり、子育てを始める。

 それを見つけたわんぱく小僧は、屋根に登り瓦をそっと持ち上げて、まだ目の開いていない幼鳥をさらってくる。親鳥は、軒先に吊るされた鳥籠を目ざとく見つけ、その子たちのために日に何十回も餌を運んでくる。しかし、雛たちにとって鳥籠はあまりにも過酷な環境であったのか、一羽も巣立つことはなかった。

 その雀たち、まるで農耕民族のように人とともに同じ場所で暮らしてきた。「雀の涙」「雀百まで踊り忘れず」「雀の千声鶴の一声」などなど、人の生活の中に雀を引用した語句は多い。小林一茶は、「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」「われときて 遊べや親の ない雀」などと、人の生活に溶け込んだ雀の様子をやさしく詠っている。

 雀たちは、人のすぐそばにいながら、それでいてある一定距離以内には決して近づいてこない。おそらく、あまりにもなれなれしくしすぎた「舌切り雀」の反省がそうさせているのではないだろうか。「スープの冷めない距離」ともいえるその絶妙な間合いは、人に人間関係の距離のとり方を教えてくれているようである。

 雀たちの、弱さがゆえの集団生活のあり方も、私達の社会生活に多くの示唆を与えてくれる。外見はなるべく地味に装う。集団の規律はきちんと守る。お互いのコミュニケーションにはうるさいほど気を使う。夜は身を寄せ合って警戒を怠らない。いわしのことを漢字では魚偏に弱と書くが、同じ発想に立つなら、雀のことは「鳥」と「弱」を組み合わせた文字にすべきではなかろうか。

 最近、近所にあった大きな竹薮が切り払われ、大型のドラッグストアが開かれた。近隣でも有数の雀のお宿であった。駅と住宅街を結ぶ幹線道路沿いにあったため、騒々しさと糞害に悩まされることも多かった。しかし、いざ彼等がいなくなってみると、失ったものの方がはるかに大きかったように思えてならない。人と雀の共生の度合いが、その社会の住みやすさのバロメーターのひとつであることだけは間違いなさそうだ。
(2005年5月14日)