バレンタインデー

イメージ 1

[エッセイ 9](既発表 6年前の作品)
バレンタインデー

 先週日曜日のこと、家内と一緒に久しぶりに娘の家庭を訪問した。部屋に入ってみると、テーブルの上に編みかけの黄色いマフラーが置かれていた。娘の長女が、バレンタインデーにボーイフレンドにプレゼントするのだといって編み始めたものだそうだ。孫はまだ6歳、幼稚園の年長組である。私は、娘がちょうどそれと同じ年頃のころ、同じようにマフラーを編んでいたのを思い出しおもわず微笑んでしまった。

 その娘が小学校4年生のときだった。彼女から小遣いを別枠でねだられた。彼女は、その小遣いの使い道をなぜかいいたがらなかった。バレンタインデーのプレゼントとして、チョコレートを買いたいのは明らかであったが、それをどうしても認めようとはしなかった。娘は、単に友達のまねをしたかっただけなのかもしれないし、ひょっとしたら彼女の初恋だったのかもしれない。いずれにしても、この年頃のプレゼントの動機はきわめて純粋であり、私達の気持ちを和やかにすらしてくれる。

 私が現役のころ、女子社員が同僚の男子社員や上司にチョコレートをプレゼントするのが流行っていた。毎年2月14日になると、主な男子社員の机の上にはチョコレートの山ができた。もちろんその大部分あるいは全部が義理チョコであることは明らかであった。しかし、彼らはその山の大きさを競いまた密かに誇りにしていた。日本には、昔から「倍返し」の習慣がある。男子社員達は、チョコレートの山は単なる義理の山であり、ホワイトデーには倍返しの山として自分に重くのしかかってくることに気づき始めた。

 チョコレートの売上が増えれば、それに倍してお返しが売れていく。ホワイトデーのお返しの習慣は、日本の企業が自分たちの儲けの種として独自に編み出したものであるらしい。日本人は、自分たちの信条とは関係なしに、クリスマスやバレンタインデーなど外国からきた風習にすぐ便乗して大騒ぎする習性がある。しかも日本のコマーシャリズムは、これらの風潮を貴重なチャンスとして最大限に利用しようとする。
 
 私は、第二次世界大戦のあと、ストリートチルドレンが路上で進駐軍にむかってチョコレートをねだる姿を鮮明に記憶している。今でも、中東やアフリカでは同じような光景が展開されており、テレビの画面にやりきれない思いをさせられることがある。日本では、女子社員がチョコレートの買出しに奔走し、男子社員はその山の大きさに一喜一憂する。3月も半ばになれば、その立場は逆転してデパートでは大入りが支給される。そんな平和な光景を、義理だ必要悪だと切り捨ててしまうにはあまりにも惜しい気がする。
(2003年2月15日)