骨折さわぎ

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[エッセイ 80](既発表 4年前の作品)
骨折さわぎ

 ツイン・ピークスからの眺めはまさに百万ドルの眺望である。入国して最初に案内される名所である。名物の霧はみじんも見られず、眼下には明るい日差しを浴びたサンフランシスコの市街が広がっている。やはり来てよかった。来られただけで丸儲け、いやボロ儲けである。

 米西海岸に出発する4日前の金曜日の午後、家内は琴の稽古のために小雨の中を出かけていった。ところが、夕方帰ってきた彼女の左足は、甲の部分が紫色に腫れあがっていた。駅前の交差点に差しかかった時、信号が点滅しはじめたので小走りに渡ろうとしたところ、左足を少し捻ってしまったという。

 「お父さんは風邪をよく引くから、出発まで気を付けなければだめよ」などと、ひとのことを注意していた張本人がこの始末である。湿布をしておくという家内をせきたてるように、駅前の整形外科に連れて行った。治療が終わったという電話を受けてその医院に迎えに行った。待合室には、松葉杖をついた彼女が待っていた。その姿は、私を絶望させるに十分な痛ましい格好であった。

 「あなただけでも行ってよ」「いや、一人で参加してもつまらない」こんな悲しい押し問答が繰り返された。結局、私一人で参加することになり、あと一人分は多額のキャンセル料を覚悟した。だが、金曜日の終業時を過ぎた時間帯に電話しても、旅行社は留守番テープで空々しく応答するだけであった。月曜日まで待てば出発日前日のキャンセル扱いとなり、すでに払い込んである旅行代金はほとんどが帰ってこないであろう。それではと、ファックスで一方的にキャンセルを通知することにした。

 会話の途絶えた遅い夕食の途中、家内がポツリとつぶやいた。「お医者さんは、明日には松葉杖を使わなくてもすむようにしてくれるといっていたよ」「じゃあ行こうよ。とにかく、行く方向でもう一度お医者さんに相談してみようよ」「先ほど送信したこのキャンセルの話は、一時保留にしてください」送信したばかりの原稿の余白に、このような大きな注釈をつけてファックスしなおした。

 絶対行くといえば、医者だって何とかしてくれるはずだ。場合によっては現地に貸し車椅子くらいあるかもしれない。たとえ少ししか歩けなくても、現場の近くまで行ければ車の中で待っていてもそれで満足ではないか。行くと決めてしまえば、会話も前向きなものに変わる。「第3信=このキャンセルの話はなかったことにしてください。二人とも予定どおり参加します!」翌朝、旅行社に送信した3回目のファックスにはこう書き加えた。

 来てよかった。日差しのまぶしいツイン・ピークスは、「来られただけで丸儲け」を実感させるに十分な最初のステージとなった。
(2004年12月5日)