禁煙

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[エッセイ 21](既発表 5年半前の作品)
禁煙

 私は、一週間前からたばこをやめた。禁煙の直接のきっかけは、増税によって7月からたばこが値上げされるためだ。従来は、値上げのつど買いだめによってささやかな抵抗を試みていたが、今回は抗議の明確な意思表示として禁煙に踏み切った。しかも、値上げの一週間前からやめた。

 ここまで言い切るとたいそう格好よく聞こえるが、実際には社会全体が喫煙者にだんだん厳しくなり、そうせざるをえない状況に追い込まれてしまったというほうが当たっている。「お陰さまで踏ん切りがつきました」というのが偽らざる心境である。
 
 公的な禁煙キャンペーンが始められたころは、喫煙による健康への悪影響についての広報が中心であった。私もだんだん肺がんに対する恐怖心を持つようになってきた。次に出てきたキャンペーンは、たばこを吸わない人に対する悪影響とそれを防ぐための方法であった。

 新幹線には早くから禁煙車が連結されていたが、航空会社も禁煙エリアを準備することになった。初めのうちは、たばこを吸う人と吸わない人を半々に分けていた。もう20年位前になるだろうか、実施される最初の日にたまたま飛行機に乗りあわせた。私は当然のように喫煙席に陣取った。機内を見渡してみると、乗客は喫煙席よりも禁煙席により多く座っていた。私はその逆転現象に大きなショックを受けた。
 
 最近は、新幹線に乗る時は禁煙車を利用するようにし、吸いたくなったら喫煙車に行くことにしていた。ほかの愛煙家に聞いてみても同じような答えが返ってきた。喫煙車はあまりにも空気が汚く、おまけにヤニで汚れている、とてもじっと座っていられるようなものではないというのがその理由である。これぞ「自己中心主義者」の見本のようなものである。
 
 最初のころ、たばこを吸わない人は特別な存在として扱われていたが、このころでは、喫煙者が迷惑な存在として特別に扱われている。千代田区などの自治体までが、愛煙家につらくあたるようになってきた。喫煙者はだんだん公共の場から追われるようになり、これでは人権侵害ではないだろうかというような事例すら目にするようになった。それでもなお、健康のためという大儀名分の前に、愛煙家は自分たちの立場を大声で訴えることができないでいる。
 
 私は、このような村八分的な扱いに耐え切れず、ついにたばこをやめてしまった。いままで禁煙による副作用を恐れていたが、いまのところ手が震えたり喉をかきむしったりといった禁断症状は出ていない。どうやら、一定間隔でやたらとたばこを吸いたくなっていたのは、単なる我侭と悪癖だったようだ。

 2年前、白い煙とともにアメリカの青い空に消えていった私の崇高な決心は、ふたたび私のもとに戻ってきた。
(2003年6月30日)