札幌農学校

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[エッセイ 211](新作)
札幌農学校
 
 なだらかに波うつ丘陵に農地が続く。ジャガイモ畑であったり、ビートが植えられていたり、あるいは牧草地になっていたり。丘陵地に広がるパッチワークは、なにも美瑛にだけに許された特別な風景ではない。

 よくもこんな広大な大地を、たった数十年で開拓しえたものだ。そんな無限に広がる北海道のど真中を、バスは網走から北見にむけて走っていた。これから国道39号線に入ろうという旧端野町道道のそばに、「鎖塚」という供養碑があった。北海道の開拓を、裏から支えた囚人たちを供養する碑である。

 北海道開拓の根幹となる道路建設は、その労働力の多くが囚人たちによってまかなわれた。彼らの多くは、鎖につながれたまま酷使され捨てられた。彼らの遺体は、鎖をつけられたまま土饅頭に葬られたという。鎖塚は、こうした人たちを供養するために、後年心有る人によって建てられたものである。

 その一方、北海道開拓の表舞台は札幌農学校から始まるといっていい。札幌農学校は、開拓の指導者育成のために開かれたものである。道路建設に駆り立てられた囚人たちが、北海道開拓の底辺をなすものであったとしたら、札幌農学校の卒業生たちはそのエリートであった。

 北海道旅行4日目は、札幌市内の自由散策であった。私たちは、北海道開拓の原点ともいえる札幌農学校、現在の北海道大学で半日を過ごした。その北海道大学は、JR札幌駅から北西へ徒歩10分の至便な場所にあった。

 札幌農学校が開校したのは明治9年(1876年)、札幌に「開拓使」が置かれた7年後である。例のクラーク博士は、ここの初代教頭であった。クラーク博士の在任は8ヵ月間であったが、そのわずかな間に科学やキリスト教的道徳について第1期生に徹底的に叩き込んでいったという。単に、「Boy’s be ambitious」という有名なセリフを残しただけではなかったようだ。

 クラーク博士の教えは以降脈々と受け継がれていった。2期生の一人・新渡戸稲造博士は、それを受けるかたちで、札幌農学校の建学の精神は人材養成にあると語っている。曰く、「札幌農学校は、農業の専門家を造るのが目的ではなく、開拓というのも必ずしも土地ばかりの開拓ではなく、人文の開拓もあった」と。4年前、台風で大きなダメージを受けたあのポプラ並木の入口には、その新渡戸博士の顕彰碑が建てられている。

 札幌農学校は、北海道開拓の進展とともに、東北帝国大学農科大学、北海道帝国大学農科大学、そして現在の北海道大学へと発展してきた。人が育ち、開拓の進んだ北海道であるが、ここでも過疎という大きな問題に直面している。

 せっかくの肥沃の大地を、元の原野に戻すようなことがあってはなるまい。
(2008年6月17日)

写真 上:広大な大地(富良野付近)
    下:札幌の時計台(旧札幌農学校の演武場)