唐人お吉

イメージ 1

イメージ 2

[エッセイ 202] (新作)
唐人お吉

 下田港に注ぐ稲生沢川に沿って国道414号線を北上すると、「お吉が渕」という標識が目に入ってくる。ヘエー、唐人お吉が身投げでもしたところなのかネエ。前回そこを通ったとき、なにも知らないままそんな冗談をいっていた。

 いままで、伊豆を訪れるたびに毎回のように下田まで足を伸ばした。毎年とはいわないが、2、3年に一度は訪ねている。開港にまつわる史跡や、寝姿山などの観光スポットにも一度ならず足を運んだ。

 ところが、唐人お吉ゆかりの場所だけはなぜか足が向かなかった。とくに避けていたわけではないが、なんとなく暗いイメージがそうさせていたのかもしれない。あるいは、唐人という言葉が心に引っかかり、訪ねるに値しないと勝手に思い込んでいたのかもしれない。

 「とうじん」という言葉は、わが故郷の方言だろうと思っていた。ところが、手元の広辞林にはちゃんと解説されていた。|羚饋諭↓外国人、異邦人、ものの道理のわからない人をののしっている語。子供のころよく耳にし口にした「とうじん」は、まさにこのの意味合いであった。

 先日、初めてお吉の墓所と記念館を訪ねた。お吉の本名は斉藤きちという。天保12年(1841)、舟大工斉藤市兵衛の次女としていまの愛知県南知多町内海で生まれた。彼女が4歳のとき、家族ともども下田に移住する。お吉は14歳で芸妓となるが、その美貌と並外れた芸は新内明鳥のお吉と称えられたという。

 安政3年(1856)、下田に米国領事館が置かれ、初代駐日総領事としてタウンゼント・ハリスが着任した。ある日、ハリスは街を見聞中に偶然お吉を見かけ、一目ぼれしてしまう。それを知った奉行所は、お吉を対米関係に利用することを思いつき、大金を積んでハリスのそばめとなるよう説得した。その報酬は、支度金が25両、年俸は120両だったという。

 「唐人」だの、「ラシャメン」だのとののしられながらも、お吉は大役を果たした。おかげで、ハリスの硬い態度も軟化し、条約交渉は円滑に進んだという。こうして、安政5年(1858)、日米両国は通商条約の締結にこぎつけた。

 その後、お吉は幕末の京で芸妓としてもう一花咲かせるが、やがて身を持ち崩し、最後は流浪の身となって下田に流れ着く。しかし、時代は大きく変わり、そこに自分の身を置く場所はなかった。傷心のお吉は、ある豪雨の夜、稲生沢川の上流・門栗ヶ渕に身を投じる。いまは「お吉が渕」とも呼ばれているあの場所である。明治24年(1891)、お吉51歳のときであった。

 昨今、テレビを中心に「篤姫」(1836~1883)がもてはやされている。その華やぎの裏に、歴史の波に翻弄された女性がいたこともまた忘れてはなるまい。
(2008年3月23日)

写真は、上:お吉の墓所と記念館のある宝福寺
     下:女の情念が宿る?天城・浄蓮の滝