第九交響曲

イメージ 1

[エッセイ 194](新作)
第九交響曲
 
 天皇誕生日が過ぎクリスマスが終わっても、第九を聴かないと年が越せないというのが昨今の風潮である。その第九と年の瀬が結びつく根拠はどこにもない。どうやら、オーケストラ楽団員の年越し資金をひねり出すために、最も稼ぎになる第九を年末に演奏するようになったらしい。

 交響曲第9番は、1824年に発表されたベートーヴェン(1770‐1827)最後の交響曲である。独唱や混声合唱まで取り入れた大掛かりな編成と、1時間を越える長大な演奏時間にはあらためて驚かされる。それまでの交響曲の常識を破る、大胆な試みがたくさん盛り込まれた彼最後の野心作である。

 第九には「合唱付き」という副題がついている。私など、「○○付き」というと「セリフ入り」の歌謡曲を連想してしまうが、交響曲で合唱付きというのは珍しい。第4楽章の合唱の部分があまりにもクローズアップされてきたため、曲全体が合唱と勘違いする人もいるかもしれない。私の秘蔵のCDでも、通しで約67分かかるが、合唱の部分は最後の17分だけである。

 この合唱の「歓喜の歌」は、シラーの詞「歓喜に寄す」をベートーヴェン自身が三分の一ほどに翻案し、さらに自身の詞を少し書き足したものである。“O Freunde, nicht diese Tone!(おお友よ、このような音ではない!)”で始まる冒頭のバリトン独唱の部分はベートーヴェンの作である。

 ところで、独唱歌手4人と、最低でも40~50人からなる合唱団はいつ入場するのだろう。第2楽章と第3楽章の間というのが通例のようだが、何百人という大編成になれば時間はかかるしそれだけ騒がしくもなる。そうかといって、最初から入場して50分間も行儀よく立っているのも楽ではあるまい。
 
 東京オリンピックの行われた1964年、ドイツはまだ東西に分かれていた。彼らは、その祭典に東西統一チームを送り込んできた。その時、国歌代わりに使われたのがこの歓喜の歌である。そのドイツも参加しているEU欧州連合は、1985年以来「欧州連合賛歌」としてこの歌を“国歌”代わりにしている。

 この曲が日本で最初に演奏されたのは、鳴門市にあった板東俘虜収容所だそうだ。当時の日本の敵国、ドイツ人の捕虜が全曲を演奏したという。第一次世界大戦の末期、1918年6月のことである。日本人による演奏は、1924年1月、九州帝国大学のオーケストラが第4楽章を福岡で披露したのが最初だそうだ。

 戦後、越年対策で始まった年末の第九演奏会は、1960年代以降急速に増えてきた。ついには、聴く方より歌う方の人数が多いという参加型のコンサートまで現れた。この私でさえ、その歌から元気をもらい口ずさんでみたくなる。年の瀬の歓喜の歌で、日本中がハッピーなニューイヤーを迎えられる。
(2007年12月26日)