百歳万歳

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[エッセイ 184](新作)
百歳万歳
 
 厚生労働省のまとめによると、この9月末で100歳以上になる人は32,200人にのぼるそうだ。統計をとりはじめた1963年はわずか153人だったというから、まさに飛躍的な伸びである。当初の6~7年は横ばいのまま推移していたが、1970年を境に着実に増えつづけ、37年連続の記録更新がなったそうだ。

 1981年に初めて1,000人台に乗ると、98年には10,000人の大台を、03年には20,000人を、そして今年07年には一気に30,000人を超えたわけである。32,200人の内85、7パーセントが女性で、27,600人もいるそうだ。その頂点に立つのが、明治27年生まれ、高知県に住む113歳の豊永常代さんである。

 一方、男性はかなり少なく4,600人である。こちらの最高齢者は、宮崎県に住む112歳の田鍋友時さんである。田鍋さんは、日本一であると同時に、男性の世界一長寿者としてギネスブックに認定されているそうだ。

 なぜこうも順調に長寿者が増えていったのだろう。汚染された環境が、私たちの健康を着実に蝕んでいるはずである。生活様式の近代化、とくに食生活の洋風化はむしろ短命へと作用しているはずである。そして、社会構造が複雑になればなるほどストレスも増え、健康の足を引っ張っているはずである。

 やはり、明治生まれの人は、成長期に培った素地が長生きに向いていたのだろうか。その後の食生活の向上も、この人たちにとっては大きくプラスに作用してきたのだろうか。そして、医療の発展も、福祉の向上も、長生きの手助けになっていたのだろうか。

 私は、母のこともあって特別養護老人ホームにはよく足を運ぶ。そこでは、多くのお年寄りたちが手厚い介護のもとでゆっくりとした時間を過ごしている。まわりにはたくさんの仲間がいる。日常生活では、なにくれとなく目をかけ面倒を見てくれる人たちがいる。孤独感や心配事もほとんどない。

 しかし、自分自身のことさえままならない。トイレだって他人の手助けがなければ用をたせない。頭が十分回転しないどころか、肉親の顔さえ見分けがつかない。意識もうつろで、もう十年も寝たきりになっている人もいる。自身の人格も、人間の尊厳も、どこかへ置き忘れてきてしまったようである。

 寿命とは、天寿を全うするとはどういうことだろう。野生の世界では、自分で餌を取ることができなくなったときが寿命の尽きるときである。誰しも、一日でも長く、しかも最後まで充実した人生を全うしたい。アンコがシッポの先までびっしりと詰まった鯛焼きのように、有終の美を飾って最期を迎えたい。

 不老長寿は人類永遠の課題である。長寿にある程度のめどがついたいま、人生の黄昏時をいかに輝きあるものにするかという不老対策が次の課題である。
(2007年9月19日)