[エッセイ 173](新作)
津軽半島
その会社の仙台支店に在勤中、青森営業所へは2ヵ月に1度くらいの割で足を運んでいた。いつも利用していたビジネスホテルの、最上階にあるラウンジからは青森港がよく見えた。バイキング方式の朝食は、そのラウンジでとるようになっていた。
いつも、その時間になると青函連絡船が入ってきた。待機していた2隻のタグボートが、船首の左側と船尾の右側に取り付く。2隻は、連絡船の横を押して右回りに回転させ、船首を沖に向けて着岸させる。その作業が終わるころ、私のコーヒーも空になりかけていた。
北東北の旅2日目は、津軽平野の日本海寄りを一気に北上していった。十三湖までの30キロ余りは、湿原の点在する一面の砂丘地帯であった。白い花の咲くリンゴ畑を想像していたが、それはもう少し内陸の方だったようだ。
それにしても、防風防砂のために植えられた松林は見事の一語につきる。冬が厳しいためであろうか、松喰い虫の被害などどこにも見られない。西日本の惨状に心を痛めているだけに、その濃い緑はことのほか頼もしく見えた。
津軽半島の北端に近い小泊村を過ぎたあたりから、国道は険しい山道へと変わった。「龍泊ライン」という絶景の峠道である。振り返ると、年に数回しか望めないという岩木山がくっきりと浮かび上がっていた。
ようやくたどり着いた竜飛崎は、どこにでもあるような殺風景な岬であった。切り立った断崖の上には白い灯台があり、岬を示す碑がぽつんと建てられている。しかし、目の前にかすんで見えるのが北海道、この足元を青函トンネルが走っていると聞かされればそれなりの感慨は沸いてくる。
その青函トンネルは、1988年3月13日に営業を始めた。これによって、青函連絡船は廃止されてしまった。灯台の脇に建つ「津軽海峡冬景色」の歌碑からは、その装いが華々しいだけにかえって侘しさばかりが伝わってくる。
この日の昼食は、いまはメモリアルシップとして青森港に係留されている八甲田丸に用意されていた。青函連絡船として、最後の航海を努めたあの大型客船である。記念撮影しようと船の後ろに回ってみたら、赤錆が目立ち、腐敗したデッキの木部にはぺんぺん草が生えていた。
私の定宿であったあのビジネスホテルは、26年後のいまも元気に活躍していた。しかし、港湾や青森駅まで一気にまたぐ背の高い「青森ベイブリッジ」が造られ、港の視界は大きく遮られてしまっていた。
あのホテルにもう一度泊まってみたいとも思ったが、港の景色は一変し動いている連絡船などもうどこにもみられない。
[2007年6月16日]