[エッセイ 160](新作)
二つの故宮博物院
さきごろ、台湾の台北にある故宮博物院が、大改装を終え全面開館したという。3年近い歳月と約25億円の費用をかけ、延べ床面積も従来の1、6倍にあたる2万4千平米にまで広げたということだ。
台北の故宮博物院といえば、世界の4大博物館にも数えられるお宝の館である。中国歴代王朝のコレクション約65万点が収蔵されているという。従来は、分野別に展示されていたが、時代別に改め見やすくなったということだ。
私が訪れたのはひと昔も前のことであるが、その展示点数の多さには圧倒されてしまった。どれ一つとってもみな世界的な宝物のはずであるが、それが無数に並べられていると価値観もすっかり麻痺してしまう。
偶然にもその翌年、北京の故宮博物院を訪れた。1421年の完成から1911年の辛亥革命まで、500年近くにわたって中国歴代王朝の宮殿であったあの紫禁城である。いまは、その広大な建築群と収蔵されている宝物をひっくるめて、故宮博物院と呼ばれている。台北にある故宮博物院の、いわば本館にあたる。
正門を入ってすぐ、日本人団体客がガイドの説明を聞いていた。ガイドは、ここの宝物はいいものはほとんど台湾に持っていかれたので、ここでは建物の素晴らしさを味わってくださいといっていた。なるほど、「もぬけのから」とはこういうことをいうのだろうか。
中国では、1911年の孫文の辛亥革命を契機に、清朝が崩壊し中華民国が成立した。その後も紫禁城に留まっていた中国最後の皇帝・溥儀は、13年後、北洋軍閥によってついに退去させられた。翌1925年、清朝が所蔵していた財宝117万点は、城内で一般に公開されることになった。こうして故宮博物院は生まれ、まもなく流転の旅を始めることになる。
やがて、日本軍の圧力が強まってきたので、国民党の中華民国政府はこれらの所蔵品を上海から南京、そして四川省にまで避難させた。1945年の日本軍の敗退とともに一旦は北京に戻すが、今度は共産党との内戦が激しくなってき。
1948年、ついに国民党政府は所蔵品を伴って台湾に逃れる。1949年10月、中国本土には毛沢東・共産党による中華人民共和国が成立し、以降台湾の蒋介石・国民党政府と対峙することとなる。
最初に北京を脱出したときの、所蔵品の梱包は1万3千箱あまりだったそうだ。そして、最後に台湾に渡るときは、厳選に厳選を重ね3千箱弱に絞ったという。命がけの戦争をしている最中、それも敗走中にどのようにしてこれだけの財宝を運んだのだろうか。
所蔵品の膨大な価値もさることながら、それらの流転の過程にこそ大いに興味がそそられる。
(2007年2月20日)