高齢者一年生

[エッセイ 54](既発表 2年前の作品)
高齢者一年生

 重くたれこめた空からぽつぽつと水滴が落ちてきた。1週間前から心配はしていたが、予報どおりとうとう本降りになってしまった。集合時間にはまだ30分以上の余裕があったが、みんなを待つつもりでとにかくその保養所に入ることにした。

 驚いたことに、部屋には大半のメンバーが揃いすでに酒宴が始まっていた。期待の紅一点も、すでに顔は紅潮し口は滑らかになっていた。

 先月末、高校の同期生12名が箱根に集まった。男性11名、女性1名という内訳である。仲間の1人が、ある健康保険組合に顔が利きいたので、素晴らしい保養施設を格安で確保できた。バブルの絶頂期に作られたのではないかと思われるデラックスな温泉保養所である。

 大文字山を正面に望む絶好のロケーション、部屋は広く、浴場もゆったりと豪華に作られていた。これだけの舞台に、山海の珍味とうまいお酒があれば、過去の空白になった時間を埋めるのに余計な手間は必要ない。あとはカラオケの地区対抗戦が、四十数年前の夢多きころの世界に引き戻してくれる。

 それにしても、同期生とはなぜこうも打ち溶け合えるものなのだろう。一緒に遊び勉強してきた仲間が、自分の信じる目標に向かってそれぞれに旅立っていった。そして、何十年かたって再びまみえるときが来た。それぞれが尊敬に値する立派な人物に成長している。そこにはわだかまりはもとより、利害関係などみじんも見当たらない。

 お互いのルーツはもともとはっきりしており、今更みえも外聞もない。あるのは懐かしさと仲間意識のみである。高齢者の仲間入りをするような年齢になると、仕事上の人間関係はどうしても希薄になる。そうした形式的な人間関係に比べ、同郷、同窓、同期などルーツの多くを共有する人たちとのそれは、年齢を重ねるごとに濃さを増してくる。

 わが国では、65歳以上の人を高齢者という。しかし、箱根に集まった面々は、誰一人としてそのように定義づけられるような人はいなかった。その大半がすでに第一線を退いてはいるが、もし本当の意味での活躍の場を見いだせれば、もっと生き生きと目を輝かすことができる人たちばかりである。

 わが国の高齢者は、いま時点で約2千4百万人と推定される。総人口を1億2千7百万人と推定すれば、その割合は18,9パーセントに達する。われわれ高齢者一年生が、小学校一年生であった終戦時点での高齢者率は4,8パーセントにすぎなかった。一方、45年後の2050年には35パーセントを越え、スペインに次いで世界第2位の高齢者大国になると予測されている。

 年金問題を云々する前に、少なくとも70歳に満たない人たちは、高齢者としては扱わないという社会の仕組みが必要ではなかろうか。
(2004年4月8日)