いまが盛りの寒緋桜

[風を感じ、ときを想う日記](1243)3/8

いまが盛りの寒緋桜

 

 ホームコースとしている箱根湯本のゴルフ場では、春になると寒緋桜がきれいに咲く。あまり大きな木ではないが、何本も並べて植えられているので結構見応えがある。先日訪れたときも、すでに満開に近い状態になっていた。ここは、海抜300メートルくらいの高地なので、気温は平地より若干低い。すると、わが家のあたりの同種の桜は、すでに満開になっているのではなかろうか。

 

 そう思って、近所の“寒緋桜の名所”に行ってみることにした。名所といっても、ある会社の小さな花壇に1本だけ植えられているもので、シーズン限定のスポットである。近よってみると、やはり満開になっていた。釣り鐘状に下向きに咲いた紫紅色の花が、枝先毎にまとまった状態で咲きほこっていた。ソメイヨシノほどの華やかさはないが、やはり見事といわざるをえない。

 

 この桜、野生種で、別名緋寒桜、台湾桜あるいは悲桜などとも呼ばれている。緋寒桜というのは、単に寒と緋を間違えてひっくり返しただけのようだが、彼岸桜はまったくの別の品種のようだ。早咲きで、3月上旬には満開になる。一重咲きで、花は下向きに咲くことから中国語では“鐘花桜花”とも呼ばれているときく。そして面白いのは、散るとき椿のように首から落ちることだ。

 

 桜はパッと咲いてパッと散るものだと思いがちだが、その代表格ソメイヨシノの他にもいろいろな種類があることを心に留めておきたいものである。

ハクモクレンの開花

[風を感じ、ときを想う日記](1242)3/6

ハクモクレンの開花

 

 ハクモクレンが開花した。あの、白く輝く美しい姿を白日の下でカメラに収めたい。しかし、あいにくの曇り空で、お日様が出てくるのは3日後の土曜日になるそうだ。それまではとても待てそうにないので、とにかく無条件に撮りまくってくることにした。そのアングルも、下からだけでなく花心の見える上からも撮ってみたい。しかし、背の高い木なのでそこまでは叶いそうにない。

 

 最初は、県道の並木として整備されたところへ様子を見にいった。しかし、高台のためか、つぼみは大きくはなっているが全開にまでは至っていなかった。出直そうと坂道を下っていくと、民家の庭に植えられた大木が、満開直前になっているのが目にとまった。坂の途中からなので、上からの様子もばっちりと観察できる。欲をいえばちょっぴり遠くて、望遠にしても拡大しきれないことである。

 

 花のシーズンになると、このお宅の庭はひときわ輝いて見える。それを目当てに、わざわざ足を運んでくる人もいるはずだ。この屋の主人の話によると、毎年、庭師にきちんと整形してもらっているという。老木となったいま、枯れ枝も増え部分的にではあるが醜い部分も目立ちはじめている。それでも、季節限定ではあるが、近在の花の名所であることに変わりはない。

 

 白木蓮とはよくいったものだ。まさに、木に咲く白いハスの花である。一息ついたら、今度は水面から伸びるスイレンの開花を楽しみに待ちたい。

3ヵ月ぶりのゴルフ

[風を感じ、ときを想う日記](1241)3/5

3ヵ月ぶりのゴルフ


 一昨日の日曜日、3ヵ月ぶりにホームコースの月例コンペでゴルフを楽しんだ。寒い間は体にもよくないだろうと、熊や虫たちと同様“冬眠”を決め込んでいた。その一週間前、コースのプレー仲間から“もう、ぼつぼつどうだ!”とお誘いがあり、2日後の「啓蟄」を前に冬の眠りから覚めることにした。

 

 ところで、このコースでは、公式コンペへの参加を3ヵ月以上空けると、再開後最初の大会では入賞資格がないという決まりになっている。もちろん、これだけ長い間素振り一つやらないでいいスコアなど出るはずもないが、一応確認してみることにした。結果は、“今日まではOK”ということだった。

 

 冗談のつもりで聞いたのだが、資格があるとなると気持も多少は高ぶってくる。そのせいだろうか、1番、2番ホールともにびっくりするようなショットが出た。“熊と寝ている間に腕が上がったのかねえ”、“寝る子は育つというが、少しは成長したのかねえ”などと冗談を言いながらうれしくなっていた。

 

 しかし、一夜漬けの薄いメッキはすぐに剥がれる。3番ホール以降はすっかりもとのペースに戻ってしまった。それでも、まるまる3ヵ月間空けていたわりには結果は悪くなかった。ひょっとして、昨年4月下旬に行われたスポンサーつき大会の、優勝の再来もあるかもしれない。“人間、いくつになっても希望を持ち続けるべきだ”などと自身にいい聞かせつつ、軽い足どりで家路についた。

閏(うるう)

[風を感じ、ときを想う日記](1240)2/29

閏(うるう)

 

 今日2月29日は4年に一度しかない珍しい日である。普段、閏年や閏月といった言葉はよく耳にするので、この日のことは「閏日」というのかと思ったが手元の辞書にはそれは出てこない。もちろん「閏」という字は存在し、“平年より暦日が多いこと”と説明されている。ちなみに、ネットには出てくるので、“全くない”と閏日の存在そのものを否定することはできないようだ。

 

 現在、広く使われている太陽暦の閏の扱いについては、4年前にエッセイ542で取り上げているのでひとまず置いておくとして、ここでは陰暦での扱いについて触れてみたい。手元の辞書には、それについて次のように説明されている。

 

 「大陰暦では、平年を360日と定めて、これを12カ月に分けたが、太陽の運行と小差があって端数が出るために、その端数を積んで1カ月になったのを1年に加えて、1年13カ月とした。たいてい、5年に2度の閏ができ、19年つまり閏を7つ重ねていくと余分が全くないのでこれを一章と名づける」。時代小説を読んでいると、○○年○月閏の月等といった表現が出てきたりする。「エッ、結局いまでいう何月ごろ?」と、大いに戸惑ってしまう。

 

 いまの太陽暦の時代に生まれてよかった!とつくづく思うが、「あれ?今日は3月1日ではなかったの?」といったとんちんかんな会話や多少の戸惑いは残る。それでも、頭の老化防止には、これくらいの気遣いはしかたないだろう。

 

(ご参考)[エッセイ 542]

閏年

 

 今年は、閏年であるとともに十二支が先頭に戻って新たなサイクルに入った年でもある。もちろん、待ちにまった東京オリンピックの開催されるオリンピックイヤーでもある。閏年、十二支、そしてオリンピック、この三者が2020年という切りのいい年に出会うことになにか因縁めいたものさえ感じさせられる。

 

 1年が365日であることはみなよく知っている。ところが、実際の1年の長さは365.2422日で、少しずつずれが出ている。そのずれの調整方法がきちんと決められたのは、つい数百年前のことである。ローマ教皇グレゴリウス13世が、当代を代表する学者を集めて研究委員会を設け、1582年にグレゴリオ暦として制定した。以降、通称西暦として各国で採用されるようになった。

 

 その暦では、余分な0.2422日の端数調整に、400年に97回の閏年を設けて対応することにしている。閏年の割り当て方には3つの原則がある。

原則―1、西暦年が4で割リ切れる年は(原則として)閏年

原則―2、但し、西暦年が100で割り切れる年は(原則として)平年。

原則―3、但し、西暦年が400で割り切れる年は必ず閏年

 

 この原則でいくと、西暦1900年=平年、2000年=閏年、2100年=閏年、2200年=平年ということになる。実は、この調整措置をとってもなお、3320年当り1日の誤差が出る。その誤差の影響は微小と考えられるので、対応策は後世に委ねることにしたようだ。但し、ギリシャ正教会の修正ユリウス暦では、上記原則―3をさらに修正することでほぼ決着がついているという。

 

 十二支が閏年に当たるのは、子年、辰年そして申年の3つに限られる。ただし、そのサイクルのスタートが常に閏年から始まるといっても、両者の関係は単なる偶然でしかない。十二支が12年サイクルであり、4年に一度という閏年のサイクルの倍数にあたるためというだけのことである。

 

 オリンピックイヤーと閏年につてもその一致は単なる偶然でしかない。第1回のオリンピックギリシャ大会が1896年に開催され、その年がたまたま閏年だったことから、以降どちらも4年サイクルで併走しているだけのことである。それでも、「閏年にはオリンピック、オリンピックの年は閏年」というのは判りやすく覚えやすくていい。

 

 それにしても、偶然の一致とは面白い。今年のような2020年という切りのいい年に三者がぶつかるというのはめったにあることではない。まして、それが東京オリンピックの年とはおめでたいかぎりである。次にこのような現象が現われるのは2080年、あと60年も待たなければならない。そのときも、東京でまた、3三度目のオリンピックをやってもらうことにしたらどうだろう。

                               (2020年1月5日)

奥手のウメたち

[風を感じ、ときを想う日記](1239)2/25

奥手のウメたち

 

 わが家に2本あるウメの木は、いま花の盛りを過ぎようとしている。正月3日に、散歩の途中で初めて紅梅の開花を目にして以来、なんと50日も経っている。単に“ウメ”とひとくちにいっても、開花時期にはこれほど大きな開きがある。それだけ、ウメには多種多様な種類があるということだろう。

 

 わが家には、実のなる“豊後ウメ”と、ピンクと白の二色に咲き分ける“思いのまま”とよばれる二種類がある。いずれもそろって奥手で、いまやっとその花の盛りを過ぎたところである。いままで、いろいろな場所でウメの花を楽しませてもらってきたが、どうやらこれが今年の締めくくりとなりそうだ。

 

 わが家には、ピンクの花を付けるツバキの木が2本ある。しかし、その花のほとんどは葉っぱに隠れていまひとつパッとしない。おまけに、その美しい姿を写真に撮ろうとしても、すぐメジロのつがいがやってきて花びらを傷だらけにしてしまう。そんな惨状では、ウメの代りなどとてもさせられそうにない。

 

 そんなことから、わが家の庭の華やぎは、もっぱら2本のウメに頼ってきた。それらの花も、寒風と雨に打たれて、いまや終り寸前となった。ただこれからは、豊後ウメが実を付け始めるので、今度はその成長過程を楽しませてもらえる。熟したウメの実は、毎年ジャムにしているが、昨年作ったジャムは偶然にも今朝で食べ尽くしてしまった。ここしばらくは、代用品で我慢するつもりである。

引地川親水公園の河津桜

 


[風を感じ、ときを想う日記](1238)2/20

引地川親水公園の河津桜

 

 いまこうしている間も、部屋に暖房は一切つけてない。この辺りの予想最高気温が24度にも達するという暖かさのためだ。一方空模様は、“雨水”突入以来ずっとぐずつき、お天道様を拝めるのは今日くらいだという。そんな状況を考慮して、今朝早い時間に引地川親水公園へと向かった。50本あるといわれる河津桜が、見ごろを迎えているのではないかと考えたからだ。

 

 遠くからでも、あのピンクの色が目についた。やはりやって来てよかった。すでに、先着の花見客もたくさんいた。花は、七、八分咲きまで達していた。中には花びらを散らし始めている木さえ散見された。ここは南北に開けているので風通しがよく、気温は低めのはずだが、季節そのものがいつの間にかそこまで進んでいたということだろう。

 

 この引地川親水公園は、南北に流れる引地川の岸辺を公園として整備したものだ。巾はそれほどないが、南北にはおよそ1.6キロある。その北半分には両岸に4筋にわたってソメイヨシノが、南半分には片側だけだが2筋にわたって河津桜が植えられている。美しい桜が、時期をずらして二度楽しめるわけだ。

 

 かつて、この河津桜を見物するために、本場・河津町へ泊まりがけで10年近くも通った。その後も松田町や三浦海岸へと、せっせと足を運んだ。そしていまは、早春の色鮮やかな桜をこうして近在で気軽に楽しんでいる。

昨夜のクラシック音楽館

[風を感じ、ときを想う日記](1237)2/19

昨夜のクラシック音楽

 

 昨夜のNHKクラシック音楽館は、「追悼・・・マエストロ・小澤征爾」というウィーン・フィルとの2つの共演番組で構成されていた。2時間半もの長い番組なので、2002年のニューイヤー・コンサートの部分だけを聴いた。22年前の正月に、氏が実際にウィーン・フィルを指揮したときの録画である。

 

 この番組は毎年楽しみにしているので、私も日本人としての誇りを胸に視聴した記憶がある。あらためて映像を見ると、小沢氏もまだ若くはつらつとしていた。表情はいきいきとしており、体の動きに切れがあった。氏の最後の舞台となった松本市での、車いすでの指揮とはまったく別世界の様相であった。

 

 当時はまだ、日本がなしえた高度成長の余韻が残っており、客席にも多くの日本人客が見られた。もう一つ驚いたのは、この22年前の番組がワイド画面で制作されていたことである。古い録画はたいてい横幅が狭いのに、この番組は貴重な記録として今日があることを予期してのことだったのだろうか。

 

 大晦日の「紅白」と元旦の「ニューイヤー・コンサート」は毎年欠かさず見ているが、後者は元旦に発生した能登半島地震の影響で放送中止となってしまった。それでも、今年のニューイヤー・コンサートは後日二回にわたって放送されたようだ。昨夜の放送は、その三回目の再放送ではなかったが、今回の2002年のものはそれに倍する価値ある番組となった。・・・黙祷!