中秋の名月

[風を感じ、ときを想う日記](1138)9/11

中秋の名月

 

 沈む日と入れ替わるように、中秋の名月が東の空に現われた。雲一つない深い闇の中に、金色に輝くまん丸い月がぽっかりと浮かんでいる。月は、高く上るにつれ、その色を金色から銀色へ、そして透き通った白へと変えていった。月と、それを眺める者との間にある大気の厚さに比例してのことだろう。

 

 今年は、夏の終わりごろからすっきりと晴れ渡った日はほとんどない。快晴などまったく記憶にない。直近の週間天気予報も、主体は曇りで、大きな雲の脇にちいさな傘マークがつくか、お日様がちょっと顔を出すかくらいである。この日も、そんな状況でそれほど期待はできないだろうと思っていた。

 

 それがどうだろう。昨日の午後になると、空からだんだん雲が消え快晴へと変っていった。月が出始めるころには、それを邪魔する物は何一つ見当たらなくなっていた。せっかくの名月で、雨戸を閉め切るのももったいない。そう思って、床につく直前まで部屋に月光を取り入れることにしたほどだ。

 

 神さまのお計らいだろうか。これほど澄み切った夜空に浮かんだ名月を楽しむのは、ずいぶん久し振りのように思う。ススキを添え物にして写真を撮ろうとしたが、今年は時期が早すぎてかなわなかった。代わりに、月にちょっとだけ雲のかかった場面をと思ったが、昨夜の状態ではそれも叶わなかった。

 

 それでも、おかげで昨夜はいい夢を見せてもらうことができた。

 

注)写真上:午後7時ごろの月。

    下:午後8時半ごろの姿。

九月の風

[風を感じ、ときを想う日記](1137)9/9

九月の風

 

 今月の「ゆうゆう通信」には、巻頭の挨拶として次のような小文を載せた。

 

 ・・・これからが旬の秋ナスにはこんな諺があります。「秋ナスは嫁に食わすな」。秋ナスはおいしすぎるのでとやっかんでみたり、体が冷えると心配してみたり、種が少ないので子供ができにくくなると縁起をかついでみたりと、嫁姑間の複雑な関係を云い表わしています。

 

 そのナスは、焼く、煮る、揚げるなど、どのように調理しても美味しくいただけます。とくに、油との相性はすばらしく、和洋いずれの料理にも格別の力を発揮します。秋ナスは、夏ばての回復、生活習慣病の予防と改善、がんの予防と抑制、そして炎症や痛みの抑制にも大きな効果があるといわれています。これからは、どんどん出回ってくるはずです。

 

 そんな安くて美味しい秋ナスを、家族みんなでしっかりと楽しみたいですね。・・・

 

 今日9月9日は重陽節句にあたる。中国では、奇数はおめでたい数字とされ、9はその最大のものである。それが二つも重なった9月9日は、一年で最もおめでたい日とされているわけだ。おまけに明日10日は旧暦の8月15日、月の一番美しい中秋の名月である。

 

 これだけいいことが重なるのだから、今夜あたり家族全員でナス料理のパーティーでも開いてみてはどうだろう。きっとみんなに幸運が巡ってくるはずだ。

わが家のカエデ

[風を感じ、ときを想う日記](1136)9/6

わが家のカエデ

 

 紅葉?新緑?それとも新紅?・・やはり、新しい葉っぱなので新葉と呼ぶことにしよう。1ヵ月前に切り落とされた枝の、先端周辺に芽生えた新しい葉っぱのことである。いま、透き通った美しい紅色をしている。時期がじきだけに、もう紅葉が始まったのかと勘違いしてしまいそうだ。

 

 わが家のカエデは、春になって新しく出る葉っぱは紅色をしている。それが成長して大人になると、ほかの植物と同じように緑色になる。夏の間、その緑が役割を存分に果たすと、やがて紅に染まりだし霜が降りるころ落葉を始める。いわば、幼少期と晩年の2回紅葉するわけである。

 

 そのカエデの枝の剪定が、夏のうちかあるいはもっと早い時期なら、切り口の周辺から新しい芽をめばえさせる。新しく出てくる芽は当然紅色である。庭木の剪定は、晩春から夏にかけて行われることが多いので、この木は年に3度紅葉を楽しませてくれることになる。

 

 そんなことから、剪定が遅れて2度目の発芽が遅くなると、新芽はきわめて短命となり、木にとってはもちろん、観賞する方にとってもあまり好ましくない。そこで、早い時期の剪定をお願いしているが、先方にも都合があるようだ。

 

 今年も8月初旬の剪定だったので、2度目の紅葉はいまを盛りと華やいでいる。そして、緑の峠を越えないまま紅葉の本番に突入するはずである。

奥手のアサガオ

[風を感じ、ときを想う日記](1135)9/4

奥手のアサガオ

 

 梅雨も終わりのころだった。捜し物をしようと引き出しの中をまさぐっていたら、小さな紙包みが出てきた。「朝顔の種」と書かれており、昨年秋の日付が入っていた。いまから蒔いてもうまく育たないかもしれない、と思いながらも、とにかく鉢に植えてみることにした。

 

 旬日が過ぎたころ、双葉が数本芽生えてきた。そういえば、種に少し切れ目を入れておくと、発芽がよくなるのだったということを思い出した。後から思い出してもなんの役にも立たないが、その後も発芽は相次ぎ、新芽の数は二桁を超えた。数日後、そのうちの6本を残して大切に育ててやることにした。

 

 新芽は成長を早め、蔓となって支柱が欲しいとねだりはじめた。ありあわせの細い棒を探しだし、つごう6本をそれらのそばに立ててやった。その先端に目でもあるのではないかと思われるほど、蔓はその棒に敏感に反応した。夏休みも半ばにさしかかるころから、それらはぐんぐんと伸びはじめた。

 

 台風の話題が賑やかになりはじめた二百十日のその日、奥手のアサガオにやっと花が咲いた。たった一輪、それも小さな青い花だった。それでも、家内共々大いに喜んだものだ。それからというもの、毎朝雨戸を開けるのが楽しみになった。以来、「今朝は何輪咲いた」が朝の会話のスタートとなった。

 

 遅れてやってきた貧相な花だが、わが家の朝には欠かせない存在となった。

台風シーズン

[風を感じ、ときを想う日記](1134)9/3

台風シーズン

 

 いま、樹木に花を付けているのはフヨウの類いである。その中でもひときわ人目を引くのが、花びらを八重につけ、朝夕で色を変えるスイフヨウである。酔芙蓉は、二百十日前後の台風シーズンに見ごろを迎える。

 

 2日前の二百十日のころ、新しい台風が日本のはるか南の海上で勢力を蓄えていた。その台風11号は、西に向かって進んでいたが、先島諸島の南西海上で突如Vターンし北上を始めた。これから九州の西方を通過し、朝鮮半島をかすめて、日本海へと抜けると予報されている。

 

 この季節、台風のニュースとともによく耳にするのが先島諸島とか八重山列島といった地域の名前である。これらを聞くたびに、その区域についていつも混乱してしまう。そこで、この際それらを整理してみることにした。

 

 南西諸島(九州南方すべての島々)=薩南諸島琉球諸島大東諸島

 

 薩南諸島(鹿児島県南方の島々)=大隈諸島+トカラ列島奄美諸島

 琉球諸島沖縄県大部分の島々)=沖縄諸島先島諸島

 

 沖縄諸島沖縄本島と周辺+慶良間諸島

 先島諸島八重山列島宮古列島尖閣諸島

 

 八重山列島石垣島と周辺+西表島と周辺

 宮古列島宮古島と周辺+伊良部島と周辺

 

注)写真 上:朝の白い花、

     中:酔っ払って顔をピンクに染めた夕方の花、

     下:白の下にあるのは前日咲いた名残りのピンクの花

ごあいさつにきました

[風を感じ、ときを想う日記](1133)8/31

ごあいさつにきました

 

 昨日、昼下がりのことだった。玄関の戸を、ドンドンと手で叩く音がした。誰か男の人が、玄関ドアのすぐ外でなにかを叫んでいるようだった。インターフォンを取り上げ、「ハーイッ」と返答してみた。なんの応答もない。数回、大きな声でそう叫んでみた。訪問者はやっとそれに気がついたようだ。

 

 しばらく間を置いて、「ごあいさつにきました」、つづいて「玄関までお願いします」という声がインターフォンを通して伝わってきた。当方は、「自分の名前も名乗らない人に応対するつもりはありません」と答えた。先方は、「わかりました」といってそのまま引き下がっていった。

 

 わが家には、まがりなりにも門扉があり、門柱には表札とインターフォンが並べて付けられている。そして、門扉を開けて敷地内に入ると、玄関ドアの脇にも呼び鈴のスイッチが付けられている。今回の事例は、それらを一切無視して、いきなり敷地内に入り、玄関ドアを手で叩いたのだ。

 

 世間の常識からいって、インターフォンが目に入らないはずはない。いきなり門扉を開けて敷地内に入ることもない。まして、呼び鈴のスイッチに気がつかないはずもない。それらを一切飛ばしていきなり玄関ドアを叩くとは・・。無礼である。なにかを強引に成し遂げようという企みは見え見えである。

 

 そんな輩のお相手をするほど暇でも不用心でもない。

地中の生きもの・セミ

[エッセイ 639]

地中の生きもの・セミ

 

 強い日射しとともに激しく降り注ぐセミしぐれ、あの強烈なエネルギーはどこから来ているのだろう。セミはどうしてそこまで生き急ぐのだろう。そんな素朴な疑問に背中を押され、あらためて昆虫図鑑を開いてみた。太く黒い胴体に透き通った羽根のクマゼミ、それをスマートにしたようなミンミンゼミ、そしてなぜかうさんくさくさえ見えてしまうアブラゼミと多種多様である。

 

 しかし、これらの絵図はわれわれが目にするセミの最盛期の姿ではあっても、その生涯の長さからいって彼らを代表するものではない。セミの一生は7年前後で、そのうちの6年くらいは幼虫のままである。あの羽根の生えた姿は最後の一週間ばかりの姿でしかない。あの姿は終末期のものであり、極端にいえばセミの見合い衣装であるとともに死に装束なのだ。本当にセミを代表的する姿を図鑑に表わすとしたら、地中にいる幼虫のそれを載せるべきである。

 

 では、地中の生きものであるはずのセミが、最後になってわざわざ地上に出てくるのはなんのためだろう。彼らは繁殖のため、立派な子孫を残すだけのためにあらゆるリスクを冒して地上に出てくるようだ。地中に暮らしていれば、他の仲間との出会いはきわめて限られたものになってしまう。視界はまったく利かず、繁殖相手を探すのは容易なことではない。それでは近親結婚に近い繁殖活動となり、種の繁栄にはあまり好ましいことではない。

 

 その点、地上は360度視界が利く。鳴き声もよく通る。おまけに、羽根まで備わっていて長い距離を自由自在に飛び回ることができる。最も優れていると思われる相手と繁殖活動を行うことができる。これほど繁殖に適した場所はないのだ。しかし、周りは外敵だらけで、鳥など他の生きものから襲われるリスクは極めて高い。もちろん事故に遭う確率も高い。それでも所詮、残り少ない命である。それらの危険をかいくぐってでもそれに倍するチャンスが得られるのだ。

 

 セミとは逆の発想に立っているのが海に棲むサケの仲間だ。彼らは、広い外洋を回遊しているので、繁殖相手との出会いに不自由することはないはずである。ところが、その自由を捨ててでも、わざわざふるさとの川に戻ってきて繁殖活動に入る。勝手な推測だが、彼らにはふるさとが、そして彼らなりのアイデンティティが欲しいのではなかろうか。ぎりぎりのところで、それぞれが受け継いできた血統を守り続けていきたいという本能がそうさせるのであろう。

 

 地中に棲むはずの生きもののセミが、その最期の場面だけ地上に現われる現象に、長い間それほど不思議とは思わなかった。しかし、こうして体系的に考えてみると、少しは納得がいったような気持ちになれた。あわせて、与えられた環境にいかに適応していくべきか、少しはヒントが得られたようにも思う。

                      (2022年8月26日 藤原吉弘)