[エッセイ 119](新作)
人口減少社会
半年くらい前だったろうか。テレビのドキュメンタリー番組で、老人たちが村の神社を解体している様子を映しだしていた。なんでも、人口が極端に減少し、コミュニティーを維持できなくなったためだという。村落が一つ、完全に崩壊してしまったわけである。
総務省が4日まとめた人口推計によると、子供の数が25年連続して減少したそうだ。総人口に占める子供の割合は13,7パーセントにまで落ち込み、こちらは32年連続の低下だという。日本の人口はすでに減少傾向に転じているが、これらのデータはそれが半世紀単位の長期に及ぶことを裏付けている。
この傾向が続くと、人口ピラミッドはさらにいびつになり、日本の国力は急速に減退していくであろう。現役世代の減少は、GDPのマイナス成長を招く一方、彼らの社会保障費の負担を加速度的に膨らませる。膨大な投資を積み上げてきた道路などのインフラは、それを維持することさえ困難になるであろう。
反面、人口が減れば住宅事情は飛躍的に改善され、交通混雑は過去の語り草となるはずである。山は緑を、川は清流を取り戻し、ヒートアイランド現象などという言葉は死語になるはずである。
人口の減少傾向は、一人の女性が生む子供の数が、平均で二人を切った時点からより鮮明になってきた。生きものの本能からすれば、種が滅亡に向かうようなこうした営み自体、きわめて不自然なことといわざるをえない。
しかし、将来への漠然とした不安が出産を抑制させ、それを周囲が容認してきたこともまた事実である。
一方、人口問題を地球規模で考えれば、すでにその定員を超えていると見ることができる。人口の適正規模は、食糧が確保できること、いまひとつはエネルギー消費量が地球温暖化を抑止できる範囲内にあることである。
日本が、こうした危機的状況をいち早く察知し、他の国に先駆けて人口の調整段階に入ったと考えれば、あるいは納得がいくかもしれない。
こうした人口の減少傾向は、戦後の世相と価値観を反映させながら半世紀をかけて培われたものである。もう一度、子孫の繁栄を価値観の中心に据えなおし、現実にそれが人生最大の喜びとなるよう、社会の仕組みから作り直していく必要がある。
国や地域の人口のバラツキは、その流動化によって必然的に調整されるはずである。水は必ず低い方に流れる。いずれ何百年、何千年かの後には、人種や国の区別がなくなり地域間の格差は大幅に縮小されるはずである。
子供の日にあたり、人口問題と子孫の繁栄について私なりに考えてみた。
(2006年5月5日)