水無月

[エッセイ 631]

水無月

 

 私の所属するゴルフ場では、月に2回ばかり公式競技大会が開催される。大会には愛称がつけられるが、月前半のそれには和風月名があてられる。4月なら卯月杯、5月なら皐月杯といった具合である。先日の日曜日には、6月の大会・水無月杯が催され私も参加した。梅雨の最中のこと、午後には雷雨の心配もあって、なんとか逃げ切りたいと念じながらのラウンドとなった。

 

 昼食のときだった。「そういえば、6月は梅雨の最中なのに“水無月”というのはおかしいねえ」と、同伴者の一人が口を開いた。「旧暦を前提にすれば夏の最中ということになり、水不足もありということではないかねえ」と返してみた。たしかに、“無”という字が当てられているのは、神さまがみな留守にするという10月の“神無月”がある。“無”はやはり無しという意味なのだろう。

 

 帰宅後、昼間の会話になんとなく引っかかるものを感じていたので、ネットで検索してみた。語源由来辞典には、「水無月は『水の無い月』と書くが、水が無いわけではない。水無月の『無(な)』は、『神無月(かんなづき)』の『な』と同じく『の』にあたる連体助詞の『な』で、『水の月』という意味である」・・・「月名は『有るもの』『すること』などから付けられることが多く、『無いもの』からの命名は考え難い」とあった。

 

 ところで、水の有る月・水無月は、その名のとおり梅雨の最中にあたる。かつて、わが国の産業が稲作中心だったころは、この時期の田植えは国を挙げて取り組むべき大切な行事であった。そして現代社会にあっては、6月末に多くの企業が株主総会を迎える。積み残した課題の解決とさらなる発展に向けて、会社を挙げて取り組んでいるはずである。一方、6月に国民の休日が無いのは、それを口実にできるような歴史的な出来事がなかったためかもしれない。

 

 いずれにしても、水はたくさん有って、やるべきことが山積していても、浮かれる口実もその機会も、ほとんどないのが6月という月である。そんなことを考えているうちに、6月も半ばを過ぎようとしている。そして、半月後には今年の半分が終わることになる。その、今年前半の最後の日には、神道の「夏越しの大祓」という催しが控えている。茅の輪をくぐって、半年分の穢れをきれいに祓い、清らかな身と心で1年の後半を迎えようという区切りの儀式である。

 

 水無月杯の日は、曇り時々雨という予報にもかかわらず朝から好天に恵まれた。予報もあまり当てにならないね、などと軽口を叩きながらプレーを楽しんでいた。しかし、この時期のお天気はそう甘くはない。あと2ホールを残したところで突然雷雨に襲われ、避難小屋で身を縮めてそれの通り過ぎるのを待つことになった。やはり水無月杯は、結局水から逃れることはできなかった。

                      (2022年6月15日 藤原吉弘)

 

注)夏越しの大祓(なごしのおおはらえ)や茅の輪潜り(ちのわくぐり)については過去にいくつか投稿しています。右上の検索の窓口から「茅の輪潜り」で検索してみてください。