彦根城

f:id:yf-fujiwara:20201211200040j:plain

f:id:yf-fujiwara:20201211200242j:plain

f:id:yf-fujiwara:20201211200415j:plain
[エッセイ 576]

彦根城

 

 城山の頂上には“ひこにゃん”がいた。さっそく、彼を入れて天守閣の写真を撮ろうとしたら、観光写真屋の商売道具だった。仕方なく、兜をかぶった白猫のキャラクターは相手にせず、すぐ城の最上階を目指すことにした。「よくもこんなきつい階段を作ったものだ」。さんざん愚痴をこぼしながら、やっと最上階にたどりついた。外観は美しくとも、やはり内部は堅固な要塞そのものだった。

 

 この彦根城は、徳川家の譜代大名である井伊家14代の居城だった。徳川幕府成立後、西日本の外様大名に睨みをきかせるため置かれたものである。1600年の関ヶ原合戦のあと、徳川の世が安定しはじめた1603年に着工し、1622年に完成した。すぐ近くにあった石田三成佐和山城に代えて作られたものだ。以降、幕末までの2世紀半、井伊家の居城として栄えた。

 

 ここの城主である井伊家は、徳川の譜代大名のなかでも筆頭格の家柄だった。転封と呼ばれる国替えなど一度もなく、一貫してこの彦根城を守り続けてきたという。歴代の徳川幕府では、譜代大名から通算12名の大老を登用しているが、その半分、なんと5代6度が井伊家出身である。なかでも、安政の大獄を主導し、桜田門外の変に倒れた大老井伊直弼が有名である。

 

 この城は、いまの彦根市の中心部にある高さ50メートルほどの小山の上に建てられた。いまも、完成当時のまま残されており、国内の他の4つの城、犬山、松本、姫路、松江とともに国宝に指定されている。美しい外見もさることながら、天守閣の最上階から眺める琵琶湖の景色は他の追随を許さない。

 

 天守閣のほか、西の丸や付属庭園の玄宮園も見学できると聞き、そちらも精力的に見て廻った。西の丸は、崖の上にあって城郭の背後をしっかりと固めている様子がうかがえた。玄宮園では、池の畔に茶室が張り出し、その背後の山上には白亜の城郭が望めた。まるで、日本画の一幅を見るようなたたずまいだった。折から、結婚式を挙げたばかりのカップルが、記念撮影の真っ最中だった。

 

 この日の午前中は、湖東三山と呼ばれる三つのお寺を見て回った。西明寺金剛峯寺そして百済寺という、いずれも近江八幡市の東側に連なる鈴鹿山脈の中腹に建てられたものである。いずれも長い石段の上に鎮座しており、高齢者泣かせの寺ばかりだった。その仕上げに、この天守閣と西の丸三重櫓の階段が、われわれの足にとどめを刺してくれたわけである。

 

 ここに来るまで、人口は11万人あまり、新幹線は素通りする、そんな寂しいところと徳川幕府大老の居城とがどうしてもぴたっとは結びつかなかった。琵琶湖周辺をめぐり、この辺りの歴史に触れてみて、はじめてその謎の一端が解けたようだ。もちろん、“ひこにゃん”の応援もあってのことである。

                     (2020年12月11日 藤原吉弘)